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笑いは人生の宝。元気に前向きで積極的に生きましょう。
毎度ありがとうございます。飛天のおしゃべりタイムです。 |
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「最近のこと」
9月1日〜17日まで、東北6県を回ってきました。目的は来年の卒業生の求人依頼です。
弘前大学をはじめ、秋田、秋田県立、盛岡、東北、山形、福島、茨城の各大学と多くの高等学校です。
先生方のお話ですと、大学の場合は、今年は1.6倍の倍率という。景気の回復と、団塊の世代の定年と小子化がこのような求人倍率を上げているとのことです。
また高等学校のほうは、進学を希望する生徒数が90数%ともあって、今年の求人は、われわれ零細企業に取りましては厳しいものがあります。
その合間を見つけて、茨城大学五浦美術文化研究所が管理している五浦の岡倉天心の日本美術院遺跡と岡倉天心記念美術館にいってまいりました。
先月、信州の赤倉に行ったとき、天心の墓に参りましたので、ここまで来たのだからチャンスとばかり出かけました。
著書には「茶の本」(岩波文庫)があります。
「東洋の理想」「日本の目覚め」は東洋文明論としても評価されています。
(常磐線・大津港下車)
岡倉天心は18歳で東京大学を卒業し、その語学力を活かしてフェノロサの通訳を努め、文部省に勤務、文部官僚として欧州出張をはじめ、
中国やインドにも旅して各地で知識人と交流しています。その後、東京美術学校【現東京芸大】の創設に尽力し、革新的な教育方針で、伝統美術を教育しようとした。
明治22年、開港した同校の校長になり、文化財保護の先駆者として活躍した人です。
当時の東京美術学校の制服は、奈良時代の官僚の服装を参照して天心自身が考案したもので、横山大観は、当時、この服装を着て町中を歩くのはよほど勇気がなければ
できるものでなかったと述懐しています。
美術館には、当時『都落ち』といわれた五浦行きには、大観、春草、観山、武山の4人の美術学校の正員だけが参加し、六角堂を中心に100メートルの圏内に彼の家が立てられ、
家族も一緒に移り住んだ。美術院の研究所は、天心邸から数歩数分の断崖に設置され、足元に打ち寄せる波が見下ろせるところまで絶壁は迫り出した、
ほとんど懸け作りのような造作で、彼らの背水の陣の精を表現したような建築だった。このとき、天心はボストン美術館の中国・日本部長だった。そこで彼らの重要文化財と指定された作品と、
昭和40年製作の平山郁夫の日本美術院血脈図を見た。よい作品が沢山あり、美術館も落ち着いていて静かだった。
景色も充分に堪能しました。(岡倉天心と五浦・参照)
美しいものは心が洗われますね。 |
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